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明治眼科医院

​百年の歴史

第一期 明治眼科2.jpg

​明治眼科 百年の歩み

明治三十七年

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 明治眼科は明治三十七年に現在の診療所の森と駐車場の所に、山田町の小松眼科病院の副院長を勤めていた溝渕重氏(みぞぶちじげうじ)によって創立されました。明治四十年八月には入院施設を増築しております。

 当時の日本人の人口は4500万人で眼科専門医は500人と推定されております。

 眼疾患ではトラコーマ(クラミジア・トラコマチス(Chlamydia trachomatis)を病原体とする感染症であり、伝染性の急性および慢性角結膜炎)が最も多く、540万人が罹患していたようです。

​ 明治三十七年の大分県中津病院眼科患者2800人の内訳は、トラコーマ26.1%、カタル性結膜炎23.4%、角膜疾患20.9%、緑内障0.4%、水晶体疾患1.3%、屈折異常3.6%でした。

 その後、大正五年に溝渕が不慮の事故により死去し、明治四十四年より副院長として従事していた娘婿の大口道忠が二代目の院長になりました。しかし、大正七年十二月に類焼にあい消失してしまいました。その後、たまたま初代小樽医師会の会長であった吉田元嶙先生が札幌に転出されましたので、譲り受けて移転しました。(2009年焼失のレストラン明治の位置、現在のそとぞの内科医院さん並び)

​ 昭和二十一年道忠が余市町の要請を受け転出し診療所を開設するのを機に、三代目大口正道が北大医局長を辞して継承。

​ このころは、まだトラコーマの患者が大変多く、朝六時に玄関を開けると、すでに患者さんが多数待っており、休む時間がなかったようです。

 昭和三十年頃に入院部屋を改築し、畳の部屋をベッドにして使っておりました。

 昭和五十七年四月に大口正樹が副院長として帰樽しましたが、諸検査や手術を行うには土地が狭いので、宮野木材事務所と木材置き場であった現在の場所に昭和五十九年五月二十八日、新築移転しました。この年が明治眼科開院八十年でした。

​ その後、平成十四年にたまたま明治眼科発祥の地である中央通りに面した隣接地を入手。アプローチを森、駐車場を作ることになりました。そのことで翌年平成十五年十一月、小樽らしい都市景観の創出に積極的に取り組んだとして小樽市の都市景観奨励賞を受賞しております。

 平成二十年四月、大口正樹の長男である大口修史が札幌医科大病院、紋別道立病院、小樽市立病院勤務を経て明治眼科へ。

 平成二十六年一月から四月まで改装工事を行い、現在の明治眼科の姿となりました。

​この年の九月、大口修史が五代目院長に就任しております。

​初代創設者 溝渕重氏

昭和二十一年

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 高知の人、安政四年三月生。

 医師免許を取得し、眼科医を志して東京須田眼科にて研鑽中、明治三十三年、同県人小松晩翠先生(当時山田町にて明治二四年小樽最初の眼科病院を開設)の要請を受けて副院長として来樽し、約五年間勤務。

 明治三十七年独立の許可を得て、小樽駅下ルる角地(現在の明治眼科の位置)に明治眼科病院を開設した。

 この年、日露戦争勃発。

​ 大正五年逝去。享年五十九歳。

第二代 大口道忠

大正五年

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 愛知の人、旧姓中山、溝渕の娘婿、明治十六年十月生。

​ 明治四十四年、当時千葉医専(主任鴻教授)の講師として、千葉県下のトラホーマ撲滅のため巡回指導などもして活動中であったが、溝渕の要請を受けて副院長として来樽、大正五年より院長就任。

 大正六年より昭和十六年まで理事(主として庶務会計)、道医理事。

​ 大正十年小樽眼科医会を主唱設立。大正7年十二月旅行留守中に病院が類焼にあったが、偶然にも初代医師会長であられた吉田元嶙先生が、札幌へ転出されたので、譲り受けて第二期明治眼科病院を開院した。(以前のレストラン明治、現在のそとぞの内科医院さん並び)

 多才・多趣味の人であり、昭和五年夏、三階建て木造モルタル造りの医院を自身で設計し、全く新たな建物として落成。

 昭和二十一年、余市町有志の方の強い要請により(当時余市から多くの患者さんが来院していた)、余市町に転出し、診療所を開設した。

昭和二十七年没・享年六十九歳。

第三代 大口正道

昭和二十一年

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 小樽の人・道忠長男・大正二年生。

 昭和十一年岩手医専卒。直に北大眼科(越知貞見教授)に入局。

 昭和十二年より十七年三月まで王将在北支(北支軍病院列車長・天津陸軍病院の伝染病棟・脚気班・眼科医長)、北大医局に復帰・医局長。

 昭和二十一年、父の余市転出により、帰樽、父業を継ぐ。

 昭和二十二年「トラホームの実験的研究」により学位受領。

 昭和二十八年小樽市医師会理事。三十年間その任に在って庶務・会計。看護学校設立に携わり、十六年間道医国保監事、北眼医会監事等行う。平成元年、文部大臣賞受領。

 昭和十一年より趣味として写真を愛し、昭和二十五年光画会設立。道写協常任委員小樽支部長。

​パリの国際サロン連続入選などを得て、平成六年「私のアルバム」刊行。

​平成二十一年八月没、享年九十六歳。

第4代 大口正樹

昭和二十一年

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 正道長男、昭和十九年生。

 昭和四十四年、岩手医科大を卒業。

 昭和四十四年四月から昭和四十五年三月まで北大病院研修医となる。

 昭和四十五年四月から昭和四十七年三月、札幌厚生病院眼科に勤務していたが、昭和四十七年四月北大眼科教室(主任杉浦清治教授)に入局する。

 昭和四十九年六月、助手となり、昭和五十一年四月、講師に昇格。

 昭和五十七年四月から昭和五十九年三月まで、北大非常勤講師を勤めながら、昭和五十七年4月より明治眼科副院長として帰樽。

 昭和五十九年五月二十八日、現在地に新築移転。

 昭和六十三年4月、医療法人に改組し、理事長、院長となる。

 平成六年四月、小樽医師会理事に選出される。

 平成十四年十二月、明治眼科発祥の地にエントランスを作成し、十五年六月、森・駐車場が完成。

​ 平成二十七年九月、明治眼科医院 会長就任。

※こちらの記事は2004年の開院百年時の資料を基に、小樽市博物館の協力を得て加筆訂正し作成されたものです。無断転用を禁じます。

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